2024年 4月 16日 (火)

外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(43) 歴史学に問われるもの

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「グローバル・ノース」の歴史学

   集まった16編の論文は、次の七つの章に分かれている。

 第1章 感染症拡大の歴史的再検討・歴史学の位置
 第2章 医療史・公衆衛生史のなかの感染症
 第3章 感染症をめぐる政治と社会の分断・緊張
 第4章 感染症による現代国民国家の変質
 第5章 感染症が照らしだす人種と差別
 第6章 感染症をめぐる格差・労働・ジェンダー
 第7章 感染症と歴史実践

   この章立てを見てもわかるように、この本は、これまでの歴史学の蓄積を踏まえ、コロナ禍が浮き彫りにした問題群をどう位置づけるかという問題意識に貫かれている。中澤さんはこう話す。

「今回特徴的だったのは、感染症が広がる過程で、これまで隠蔽されてきたものが可視化された、ということでした。米国におけるブラック・ライブズ・マター運動から、ハンガリーなど欧州における権威主義体制への移行に至るまで、それまで見えていなかった潮流がコロナ禍で顕在化した。あるいは世界におけるジェンダーの問題やレイシズムが鮮明になった。そうした論文の中で、私がとりわけ強い印象を受けたのは、我々の研究が『グローバル・ノース』の歴史観に制約されていたのではないか、という指摘でした」

   たとえば千葉大の小沢弘明さんは、「新自由主義下のCOVID―19」という論文の冒頭に、WHOが2016年に調査した所得別の死亡原因トップ10の図表を掲げる。これを縦軸に順位、横軸に「全世界」と「高所得国」から「低所得国」まで4つのカテゴリー別に死因を並べたものだ。高所得国では「虚血性心疾患」「脳卒中」「アルツハイマー病」が上位3位を占め、「下気道感染症」は8位。これに対し、「低所得国」では「下気道感染症」が1位、「下痢性疾患」が2位、「HIV/AIDS」が4位、「マラリア」が6位、「結核」が7位と、感染症が五つまでを占めている。

   小沢さんは、こうした違いから、感染症に囲まれた「グローバル・サウス」がその死を社会的・構造的にとらえているのに対し、豊かな「グローバル・ノース」は感染症を一時は抑え込んだと思い込み、パンデミックをいまだに「事件史」としか把握していない、と指摘する。つまり、私たちはグローバル・サウスの感染症を他人事としてしか考えてこなかった。歴史学も、そのもとで制約されてきた、というのだ。

   小沢さんはさらに、私たちはすでに40~50年にわたって「新自由主義」を前提に生きており、医療や介護システムを競争的・効率的なものに変えるため、市場化の対象にしてきた、という。今回のコロナ禍にあたっても、政府はデジタル化やリモート化など医療産業イノベーションを急激に促進する「好機」ととらえ、危機を利用した資本主義の再編強化を狙っている。つまり「ニューノーマル(新常態〉」は「第4次産業革命」という資本主義の新たな形態に照応した言説体系を構成している、という。

   小沢さんはこうして、歴史学もまた、グローバル・ノース、新自由主義の制約に置かれ、パンデミックの克服も「パンデミック資本主義」のもとで進むという逆説を示す。そうした逆説を見据えることを、「事件史」から脱却する出発点にすべきだ、という覚悟を示したといっていいだろう。この論文について、中澤さんはこういう。

「北半球の歴史家は、初めてパンデミックに直面して、慌てるしかなかった。これまで歴史家はグローバルヒストリーの重要性を説いてきてはいたが、実際にはグローバルな世界史を真剣に考えてこなかった、ということだろう。これも、コロナ禍が初めて突きつけた課題だったことを指摘した論文だった」

   私たちの歴史観が普遍的なものではなく、むしろ地理的、時代的に制約されたものであることを、別の角度で論じたのは、東大の池田嘉郎さんによる「コロナ禍と現代国民国家、日本、それに西洋史研究」だ。

   池田さんは、今回のコロナ対応において、欧米の対応は日本にとって、「包括的モデル」として機能しなかったことを指摘する。欧米を見習うべきモデルとする傾向は、近代批判が登場した1970年代からすでに色あせていたが、今回のコロナ禍で「包括的モデル」としての欧米は最終的に失墜したという。

   歴史家にとって、その意味は大きい。明治時代に日本の歴史学は三つに区分された。「西洋史」「東洋史」「日本史」である。池田さんが研究の足場とする「西洋史」は、もともと、「包括的モデル」としての西欧という世界観を出発点にしていた。それが「失墜」したというのなら、当然「西洋史」研究の在り方も問われる、と池田さんはいう。

   そのうえで池田さんは今回のコロナ対応において、私権の制限をできるだけ避けるという日本の「ソフトな対応」は、決定や実行の遅れという批判にさらされながらも、「包括的モデルとしての西欧に由来する議会制、市民社会、私権といったものを尊重した点にこそ特色があった」と指摘する。その意味で、「西洋史」という枠組みはなお意義を失っていない。

   だがそれ以上に重要なことは、コロナ禍をきっかけに、日本社会は外部に包括的なモデルをもつことなく、21世紀を進んでいかねばならない、とも指摘する。「おそらく、どこかに包括的なモデルをもつという発想自体が、日本だけでなく世界的にみて、過去のものとなったのかもしれない」と池田さんはいう。

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