2024年 4月 25日 (木)

外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(43) 歴史学に問われるもの

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「中世」からのまなざし

   歴史学の立脚点を問われたのは西洋史に限らない。三枝さんは14世紀から17世紀にかけての日本史をフィールドにしてきたが、コロナ禍をテーマにすることが決まって、自分の研究が今の時代にどう結びつくのか、無頓着でいたことに気づいたと振り返る。

「歴史学では、史料をもとに実証可能なことを着実に究明する姿勢を求められます。そこから飛躍して何かを論じることには慎重な人が多い。今回初めて、今起きていることに対し歴史家として何が言えるのかを、問われたような気がします」

   三枝さんは論集に「感染症と中世身分制」という論文を寄せた。この論文で三枝さんは、今回のコロナ禍で感染者やその家族、医療や流通・小売りなどリスクを取って働かざるを得ない人々への差別が生じたことに焦点を合わせ、感染症が差別の原因となり、社会構造の矛盾をあぶり出す状況を過去にさかのぼって考察する。その例として、中世日本におけるハンセン病の罹患者が共同体から排除され、身分制の最下層をなす「非人」集団に組み込まれたことを、さまざまな史料をもとに論じている。

   こうしたことが起きた背景には、中世の京都を中心に広まった「穢(けがれ)」観念と「宿業(すくごう)」観の流布があったという。王朝国家は感染症に代表される「ケガレ」をどう解消するかに心を砕いた。

   だが、権力が排除の観念やイデオロギーを流布したとしても、それを厳格に遂行する主体がなければ、差別や排除は社会に行き渡らない。

   三枝さんは非人宿を束ねる長吏による起請文などをふまえ、ハンセン病にかかった人の所在情報がどう伝わり、どのような条件で集団に組み込まれたのかを追った。その結果、所在情報が寄せられる背景には、ハンセン病を忌避し、排除しようとする志向が、組織内の上位権力のみならず、病者が所属する集団や共同体においても共有されていたと指摘している。

   中世日本のハンセン病者は、差別されながらも参詣路や交通路など、人々の行き交う開放空間に生きていた。近代以降、国家権力はハンセン病者を強制隔離・療養所収容したが、その「隔離」と比べ、「開放性」があったのだろうか。だがその「開放性」は都市空間における境界性、周縁性を前提としており、施行を受けなければ生きてはいけないという現実があった。また彼らを包摂した非人集団には明確な階層差があり、管理者である長吏には暴力や裁判権をも行使できる権力が備わるとともに、長吏を支配・統制しようとする国家権力の動向も存在した。こうした点から、三枝さんは、中世のハンセン病者もまた「開放性」のもとではなく、中世固有の「隔離と収容」のもとにあった、という。

   三枝さんの論文を読んで、私は今に至るまで続くハンセン病に対する差別や偏見が、いかに深くこの社会に根を下ろしていたのかに気づいた。まったく状況が違うとはいえ、同じ感染症であるコロナにどう反応するのかという問題も、過去のハンセン病への対応や、私たちの心性を形作っている長い歴史や文化にまで掘り下げて考えなければいけないのだと感じる。

   近世から近代にかけ、国民国家が姿を現すころの欧州について、主に東欧諸国を中心に研究してきた中澤さんは、こう感想を語った。

「これまで近代史研究では、同じ時期の外国を横の空間軸で比較することが多かったが、前近代からの縦の時間軸でどう評価するかという視点が弱かったように思う。三枝さんらの論文を読んで、自分が時間軸から日本という足元を見ていなかったことに気づかされた。ハンセン病を通して、歴史の構造的な問題という重たい課題を突き付けられたような気がします」
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