近年、SNSで炎上が起きると、発信元から決まって聞かれる言葉がある。「誤解を招く表現でした」一見、反省の意を示しているように見えるが、どこか歯切れの悪さを感じさせる。この「誤解を招いた」という言葉が多用されるのはなぜだろうか。謝罪の内容が再び批判を呼ぶ結果共産党元衆議院議員の池内さおり氏が2025年11月、X(旧Twitter)で、来日したトランプ米大統領に対応する高市早苗首相を「現地妻」と呼ぶ投稿をした。これが激しい批判を受け、池内氏はXで後日、「誤解を招く表現であったことをお詫びいたします」とした。その前段で、「高市総理を現地妻であるなどということを意図して書いたものではありませんでした」と釈明している。しかし、「これは謝罪なのか?」という指摘が相次ぎ、発言そのものよりも、謝罪の内容が再び批判を呼ぶ結果となった。この「誤解を招く」という表現は、ここ数年のあいだに定着している。政治家だけでなく、2023年3月にはNHK広報の公式Twitter(現X)の番組告知で、歌手の中村中氏が発言していない内容を、あたかも本人が発言したかのように投稿したことがあった。これに対して中村氏が「人の心を逆立てるような宣伝はしないで欲しいです」と指摘したことから、NHK広報アカウントは、「ご案内について誤解を招く表現がありました」と投稿した。誰が誤解を招いたのかこの「誤解を招く」「誤解を与える」という表現に、十分な謝罪の意を感じないのは、主語が不在であることが大きな理由だろう。そもそも、「誤解を招いた」というのは、誰が「招いた」のかが不明瞭だ。「表現が誤解を招いた」とするなら、その表現を選んだのは誰なのか。たしかに日本語は主語を省略しやすい言語だが、謝罪文における主語の省略は、責任の所在をあいまいにする働きを持つ。さらに「誤解を招いた」とすることで、問題の原因を自分の意図ではなく「他者の理解」や「状況の受け止め方」に転嫁できてしまう。言い換えれば、「あなたが誤解したのなら、それは残念だ」というニュアンスを含んでいるのだ。この構造が、「謝罪のようで謝罪でない」印象を生み出しているのである。発言が可視化される時代の正しい謝罪とはでは、それでもなぜ「誤解を招く」表現が使われ続けるのか。まず、SNSの普及により、発言が可視化され、切り取りや拡散が容易になったことで、あらゆる発言が炎上の火種となる可能性が高まっている。SNSは意見を広げるためには効果的なツールである一方、ほんの少しの不適切な発言でも、瞬く間に広まりかねない。そうしたなかで、発言者は「意図的に侮辱した」「名誉を毀損した」と認定される法的リスクを避けたい。さらに、可視化が進んだ現代では、謝罪がかえって責任者への過剰な追及を招くこともある。謝罪が終わりではなく、第二の炎上の始まりになることもあるのだ。その結果、主語のない「誤解を招いた」という言葉が、「意図的ではなく、誤解をもって受け取られかねない発言だった」という責任を限定した、安全な謝罪としてテンプレート化していったと考えられる。ただ、今回の池内氏のケースのように、「誤解を招いた」という表現そのものが再び炎上を招いてしまったことは、今後の謝罪発言のあり方に影響を与えるかもしれない。本来、謝罪とは道義的な行為である。しかし、主語のない謝罪は形式的で、心がこもっていないように映る。誰もが発信者となり、誰もが炎上の当事者になりうる時代だからこそ、正しい謝罪のあり方を改めて考える必要があるだろう。
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