2026年は1月から、異例の「真冬の衆院選」となった。主要政党が打ち出した公約では、消費税減税など経済政策が目立った一方、エネルギー政策は争点とならなかった。
11年3月11日の東日本大震災と、東京電力福島第一原発の事故。福島県内の複数の自治体は住民に避難指示を出した。数日で帰れるはずが、何年も帰還できなくなった地域もある。15年の歳月が流れた今、地元を離れざるを得なかった人たちの声に耳を傾けた。
「軽トラックが、荷台に人を乗せて山のほうへ」
福島県浪江町。原発事故後、「全町避難」が指示された。居住制限区域は事故から6年後の17年3月31日、帰還困難区域は「特定復興再生拠点区域」のみ23年3月31日にようやく、指示は解除。だが現在、町内に居住する人は2200人で、震災前の人口2万1500人の約10分の1に過ぎない。
町内で時計店を営んでいた佐藤勇男さんは、仕事中に被災した。しばらくして、店の前の道路で異様な光景を目にする。
「軽トラックが、荷台に人を乗せて山のほうへ走っていく。いったい、なんだろうと」
津波から逃げてきた人たちと、後で分かった。佐藤さんの店は町中で、津波が押し寄せた事実を知らなかったのだ。
その夜は自宅で過ごしたが、翌朝早くパトカーが巡回してきたのに出くわす。警官は防護服姿で、ただ事ではない雰囲気を漂わせ「逃げてください」と繰り返した。佐藤さんはこの時、原発が深刻な事態に陥っているとは思いもよらなかった。
根本洋子さんは同じく地震発生の翌朝、住まいのある地区の区長に避難するよう言われたという。「『2、3日で帰れると思うから』と言われたんですが...」と当時を振り返る。
一方、根岸きくえさんの場合、避難の呼びかけは聞こえてこなかった。電気も水道も使えたので自宅にいたが、「どうも様子がおかしい」と3月12日夕方、娘が町役場に行ったところ誰もおらず、家を離れた頃は既にほとんどの町民が避難したあとだったという。
このように、同じ町内でも住んでいた場所や状況によって、発災から避難までの経緯はそれぞれ違っていた。
放射性物質の飛散を知らされず
三人とも、最初の避難先は町の北西部・津島地区だった。のちに発覚するが、津島には放射性物質が飛散していた。今日に至るまで、大部分が帰還困難区域のままとなっている。
「食事が配られる際は、外で並んで待たなければなりませんでした。放射能のことなど知らされず、孫が外で友達と一緒に食べたりして......被ばくが心配になりました」
詩人である根本さん。「みうらひろこ」の名で出した詩集『ふらここの涙―九年目のふくしま浜通り』(コールサック社)に、こんな一節がある。当時の景色を詠んだものだ。
「私と遊んだ子供達は
どこで暮らしているのでしょう
すっかり大きくなった子供達の
心の中に
私と遊んだ記憶が
ふるさとの悲しい思い出と共に
揺れているのでしょうか」
津島から三人は、それぞれ別の場所へと移る。根本さんは実家のある福島市から相馬市に。佐藤さんと根岸さんは早々に津島を離れ、佐藤さんは新地町から霊山を経て、岳温泉にしばらく滞在。根岸さんは息子の住む栃木、さらに東京へと移った。
原発建設で潤ったのも確か
原発事故に翻弄された、福島の人々。一方で原発の立地する地域は事故が起きるまでは「潤ったのも確か」と、佐藤さんは振り返る。
震災前、東京電力福島第一原発の関連の仕事に就いた地元民は、少なくない。原発建設にあたって周辺地域には飲食店が増え、すし店には大量の注文が舞い込んだそうだ。
農業をやめて東電や関連会社に就職した人も、少なくなかったという。「給料が桁違いでした」。
だが佐藤さんは、自身の被災体験からこうも話す。
「失ったものは、お金には変えられません」
震災前、親戚縁者としばしば集まって楽しい時間を過ごした。200人ほどの大所帯になることもあった。浪江が全町避難となり、バラバラになってしまった結果、親戚との密なコミュニケーションは途絶えた。佐藤さん自身、現在は新地町在住で浪江に住んでいない。
「浪江で生まれたのだから、浪江で終わりたい」
との気持ちがあるという。
まだまだ話せないことがある
根本さんは相馬市で暮らす。
「『浪江に帰ってよし』と言われても、帰れない。死ぬまで帰れない人が、いっぱいいますよ」
こう語る。大熊町や双葉町は、JRの駅周辺に災害公営住宅が建設された。だが浪江町は、中心部など「避難指示解除準備区域」が大熊町や双葉町より早く避難指示が解除されたが、駅近くでの災害公営住宅の建設は遅れている。この点、町政懇談会で質問した。
元々は福島市出身の根本さん。浪江の家はリフォームして貸し出しているが、自身は「今の(相馬の)家を守らなければならない」。浪江に戻るのは難しいようだ。
根岸さんは、「家が浪江にないので、こだわりはありません」。現在は南相馬市に住み、娘の家も比較的近い。浪江には墓参などで足を運ぶことも可能だ。
一方で、こうも口にした。
「15年は、あっという間だったけれど、まだまだ話せないことがある人はいます」
心の深いところにある、なかなか明かせない複雑な気持ちも残ったままのようだ。
(J-CASTニュース 荻 仁)