【連載】ブロードバンド“闘争”東京めたりっく通信物語
11. 世の中はADSLの啓蒙宣伝を相手にしなかった

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「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃

   ADSLは伊那の地で、専門家のみならず一般大衆にも公開された。それらの機器はその後十年にも及ぶ歳月を経過してもなお立派に作動している。

   日本中にADSLが普及したという現在があるのは、ささやかな規模に過ぎないが、伊那に今も置かれているADSL実験装置から全てが始まったという意味で日本の情報通信インフラの歴史における巨大なマイルストンである。

   いなあいネットの局舎前には、「日本のADSL発祥の地」というプレートが実験開始十周年のモニュメントとして設置されているのも理由のある所である。

   伊那で踏み出された最初の1歩がやがて確実に2歩、3歩と歩みを進め、一部の有線放送網だけに終わらず、広く日本国中に遍く広がっていく、これが実験成功で高揚する我々の抱いた期待であった。

   長野での一連の実験を終えた私と梅さん、数理技研チームの次に打つ手は決っていた。ADSLを啓蒙宣伝することだ。日本でもADSLが動いたこと、実際に利用者の手で使われ、その特性も把握できている事を広く日本中に知らしめる事だ。

   我々の目論見は、農村有線放送電話網インターネット経由で接続し、ADSLを何百台と動かす次段階の本格的実験を行うことだ。そのためには今度こそ、スポンサーが当然必要となる筈だ。数理技研のシステム・インテグレーションの商談も発生するに違いない。

   伊那、上田の実験報告書、そして実験ドキュメントの単行本をかかえて、私たちは1998年4月以後、精力的に「営業」を開始した。知り合いの企業、農林関係、郵政省、通産省等を廻った。

   しかしながら、NTTは論外としても、世の中の反応は総じて厳しかった。殆どが、門前払い。「ボランティアでやったって?」という冷たい反応を見せる人達もいた。

   「官のお墨付き」、「著名企業名が入ったプロジェクト」であればまだしも、「営利を目的としない将来にむけての実験」は世智辛くなっている日本という風土では殆ど受け入れられないようだ。

   また、ADSLなる用語もあの頃は全く認知されていなかった。広帯域通信に特別な関心を持っている人以外は、その説明を聞くだけでうんざりする。

   所轄官庁である筈の郵政省に、電気通信監理局の伝で報告と相談をかねて訪問するが、田舎で起こった出来事を聞くまでもないという調子だった。これには少し怒りを覚えたが、抑えて早々に引き上げたのを今でも覚えている。

   その1年後には、俄然ADSLの積極推進派として登場する郵政省も、この時点では、こんな程度だったのである。

   我々の目論見はあまりにも早すぎたのである。後で触れるNTTによるADSLフィールド実験を経て、郵政省もやっと動き出すようになる。

   ほとんど諦めかけたときに、耳寄りな話が飛び込んだ。通産省管轄のJIPDECが「中心市街地活性化プロジェクト」を公募しているという話だ。

   さっそくここに駆けつけ、中西専務理事に面談することができた。そして、はじめて我々は最初の唯一の理解者であり実力者である人物に出会う事ができた。豪放磊落な人柄からはうかがえない「感度」の良さをもっていた。

   中西専務理事の後押しでかなりの予算を付けていただき、伊那商工会議所を窓口として本格的な実験が立ち上がった。ただし、このプロジェクトはあくまで「中心市街地活性化」という目的のもので、xDSLによる高速の地域ネットワークという我々の目的とは微妙にずれていた。

   この頃話をした多くの人達には共通の反応があったが、「高速のネットワーク」がピンと来ないようだ。今では当たり前になってしまった「ブロードバンド」という言葉も、その時点ではまだ市民権を得ていなかった。

   「メガビット級の速度でインターネットにアクセスできます、地域にLAN並みのネットワークを作れます」、と言っても「それで何すんの?」という反応しか返ってこなかった。

   確かにxDSLによる高速通信をどう利用するか、については我々はあまり考えていなかった。日頃仕事でネットワークを駆使し、その遅さにいらだっていた我々にとっては高速ネットワークの必要性は自明なのだが、世間一般ではそこまで困っていなかった。

   電話回線でのインターネットアクセスで電話代が高額になることや、テレホーダイの利用で夜更かしすることの弊害が言われていたが「高速化」という声は少なかった。

   TMCがADSLサービスを始めた後でも、しばらくは「常時接続」ということのほうが「高速」ということよりも重要視されていたのである。

   「それで何すんの?」という問いへの答えの1つは明らかに動画である。本来、ADSLはビデオ・オン・デマンドを目的に開発された。

   伊那や上田でのxDSL利用実験でも動画コンテンツが用意された。JIPDECのプロジェクトでも当初応募した時の計画では動画の利用を想定していた。

   ただし、計画が採択された時点で予算が大幅に削られたため、動画の利用は見送った。

   動画の計画を復活させるため、翌年IPAの公募に応募し、めでたく採択されたのだが、当初の計画からは段々とずれて、実験の性格も変えられてしまった。因みにインターネットでの動画利用は未だ解決に至らない課題であり続けていると思っている。

   なにはともあれJIPDECの予算を得て伊那市に200ユーザー程の地域高速ネットワークをxDSLにより構築することができた。

   最初の伊那xDSL利用実験の10倍規模のネットワークである。回線は伊那市有線放送が提供し、サービスは伊那商工会議所が運営する。

   ちなみにこの時、通産系の商工会議所と農林系の有線放送が同席したことが地元では話題となった。初めてのことだったらしい。

   xDSL機器は1年前の実験に手弁当で参加してくれた5社から購入し、利用実験の主力メンバーであったインフォヴァレーによりインターネットに接続した。

   ユーザーも利用実験以来のJNAJINのメンバーを中心に更に広がった。このネットワークはこの時点で日本最大のブロードバンド・ネットワークであり、単なるインターネットアクセスの手段ではなく地域の情報ネットワークという性格も有するものであった。 今ではインターネットのブロードバンド接続はあたりまえのものになっているが、地域の高速ネットワークというものはその後生まれていないのではないだろうか。

   1998年は、伊那の地で常時接続高速インターネットの実験が、約200ユーザーを対象に電子商取引という本格的なアプリケーションを伴って立ち上がるのと平行して、NTTでは全国約120ユーザーを対象とした「DSLフィールド実験が」が行われる年となった。

   ただし、その時点では、その後に繋がる具体的な策を考えていた訳でもない。ただ、何かできないかと悶々と毎日を送っていたのである。


【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。 1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。

連載にあたってはJ-CASTニュースへ

東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。

写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。

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