2021年 7月 26日 (月)

外岡秀俊「コロナ 21世紀の問い」(3) 隠喩としてのコロナ

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「エイズとその隠喩」

   ソンタグが「隠喩としての病い」を発表したのは、ガンがまだ「不治の病」であり、病名の告知が死刑宣告と等しい時代だった。もちろんその後はガン治療が進み、早期発見早期治療の方針が社会にいきわたるにつれ、患者への告知はもちろん、ガンに罹患したことを公言することも自然になった。ガンそのものは克服されていないが、社会はガンに適応し、人々はガンと共存しながら生き、仕事や暮らしを続けることができるようになった。

   ソンタグがその続編を書いたのは、ガンに代わってエイズが「隠喩としての病い」の主役として登場した時期だった。正体不明の不治の病。しかも感染性ウイルスによる症候群で、潜伏期間が長く、すぐには発症しない。

   かつてのガンは、イコール「悪」とみなされ、患者はガンに罹ることを恥ずべきこと、隠すべきことと感じてきた。エイズの場合、恥ずかしさと罪の意識はひとつになる。血友病などを除く多くの場合、エイズはある「危険なグループ」、つまりは同性愛の男性という「除け者集団」のメンバーであることを証明し、患者を社会から分離し、いやがらせや弾圧にさらす隠喩になった。

   ガンは喫煙や過飲など、不健全な生活や、不摂生な習慣と結び付けられやすかった。エイズは薬物への惑溺や性的逸脱のイメージをかき立て、患者に「見境のない欲望にとりつかれた人々」というスティグマを刻印する。ガンの診断はかつて、家族が患者に隠してしまうことが多かったのに対し、エイズは患者の方が家族に隠すことが多い、とソンタグは言う。つまりその病は患者を社会的な差別と排斥の的とし、最も親しい人々からの孤立をもたらす。ガンが、個人化した近代的な病いの代表であったのに対し、感染性のエイズは、ペストやコレラといった前近代的な流行病の恐怖の再来とみなされるようになった。

   かつて流行病は個人ではなく、集団にとっての災難であり、共同体に対する審判とみなされていた。だが人々が地域や国を超えて接触するにつれ、流行病は、ある種の「逸脱」した個人が外部からもたらす疫病と受け止められていく。

   15世紀末に欧州を席捲した梅毒は、イギリス人にとっては「フランス病」、パリジャンにとっては「ゲルマン病」、フィレンツェの人々にとっては「ナポリ病」だった。ソンタグは、流行病を「外来性」とみなすこうした比喩は、自分たちとは異質の「外部」を「悪」とみなす太古の時代の感覚に由来しているかもしれない、と言う。

   エイズもまた、欧米にとっては、そうした外来性の「悪」と受け止められた。それは「暗黒大陸」に発し、次いでハイチに、米国に、欧州に波及した熱帯性の病気とされてしまった。欧州では、自分たちが侵略者、あるいは植民者として、過去に南北アメリカやオーストラリアに天然痘などの疫病をもたらしたことについては驚くほど無感覚だ、とソンタグは言う。

   さらにソンタグは、疫病の隠喩は道徳のたるみや背徳を明るみに出し、社会の危機に即決の審判を下すための必需品だという。それは怒号とともに、反リベラル、反歴史的な思考を後押しする。さらに流行病は、外国人、移民の流入を禁止せよという声を引き出す。これまでも外国人嫌悪のプロパガンダでは、移民は必ず病気の運び屋とされてきた。フランスの政治家ルペンは外来のエイズが蔓延すると主張して不安を煽り、国家規模で保菌者全員の強制的な検査と隔離を求めた。

   恐ろしい病気の流行は、必ず寛大さや態度の甘さへの批判をかきたてる。国家や文明社会、世界そのものが存亡の危機に直面しているという「緊急事態」においては、「思いきった手段」が抑圧の口実にされがちだ。そうソンタグは警告する。

   こうして負のイメージを投射されたエイズは、それ自体が強烈な隠喩となって人種差別や偏見を煽り、社会を動かしていくことになる。

   そうした考察を重ねたソンタグは、すでにある疫病と、やがて来るはずの世界病の違いは、現在の限定戦争と、やがて起こりかねない想像を絶するほど恐ろしい戦争の違いに似ているだろうという。

「容赦なく死者の数を増やし続けている現実の疫病のむこうに、われわれが起こると思い、かつ起こらないと思っている、質的に異なる、はるかに大きな災厄が待っているのだ」。

   こうした予告を述べたうえでソンタグは、病をめぐる言説について、「せひとも退却してほしい隠喩が二つあるという。一つは病気の人々を排除し、烙印を押すにあたって、過剰動員をかけ、過剰描写をする「軍事的な隠喩」だ。そしてもう一つは、その逆の「公共の福祉」の医学的モデルだ。「それは権威主義的な支配をたくみに正当化するだけでなく、裏でこっそりと、国家のヒモつきの抑圧と暴力の必要性を示唆したりするからだ」。

    これには補足が必要だろう。「公共の福祉」や「公衆衛生」には、「人々の安全安心のため」という大義があるため、一見、「戦争」とは全く逆の「平和」なイメージがつきまとう。だが、使い方によっては、これも「強制」を伴い、人々を萎縮させることがある。ソンタグはそう指摘している。「安全安心を守るために」という口あたりのいい惹句で、基本的な人権の剥奪や制限を続けることにも、注意しなければならない、という意味だろう。今の日本のように、政治家が専門家に判断を「丸投げ」をしていると、政治家が責任を取らないばかりか、専門家の言い分を借りて、権利を抑え込んだり、社会に過度な同調圧力が広がりかねない。

   病に対しては、医療で向き合うしかない。病に投射された負のイメージに恐れおののき、不安になってはいけない。やがて病それ自体が強烈な隠喩になって独り歩きするときは、戦争と抑圧の合理化に使われることを疑え。

   病をめぐるソンタグの考察を、そう要約してもいいだろうと思う。

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