2021年 6月 20日 (日)

外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(17)哲学者・高橋哲哉さんと考える 歴史認識と「犠牲のシステム」

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「犠牲のシステム」の不可視化

   こうした日本型「犠牲のシステム」はいつから作られてきたのだろう。高橋さんは、このシステムは戦前、戦時中からあった、という。大日本帝国憲法のもとでは、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」(教育勅語)、戦争においては「義は山嶽より重く死は鴻毛より軽しと心得よ」(軍人勅諭)ということが、当然視された。いざという時には国のために命を捧げ、尊い犠牲として靖国神社に英霊として祀られるという、目に見える「犠牲のシステム」だった、といえる。

   だが主権在民の日本国憲法のもとで、「犠牲のシステム」を表立って押しつけることは、さすがに、できない。一定の国民に犠牲を強いてはならない、というのが憲法の建前であるからだ。その結果、「犠牲のシステム」を不可視化し、「犠牲を見ないで済む」メカニズムが働くことになる。

   たとえば沖縄では、故・翁長雄志前知事の時代以来、一貫して国政選・地方選で「辺野古への移設反対」の民意を示してきたが、今の衆院でいえば沖縄には選挙区・比例区を合わせて6議席しかなく、「多数決」という民主制度のもとで、その主張が通る見通しはない。

   福島でいえば、2013年の東京五輪招致スピーチで、安倍晋三首相は原発事故について、「状況はコントロール下にある」と演説した。しかし、原発被害を切り捨て、不可視化したに過ぎず、敷地内には汚染水がたまり続けるなど、問題は山積している。

「聖火リレーも、原発解体の作業拠点だったJヴィレッジから出発し、若者たちが福島を走って『復興』をアピールする。これは宣伝というより、犠牲を不可視化するメカニズムと言っていいように思えます」
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