2024年 4月 20日 (土)

外岡秀俊の「コロナ21世紀の問い」(42)政治学者、宮本太郎氏と考える福祉のこれから

「一杯のかけそば」と「日本型生活保障」の揺らぎ

「日本における社会保障の現状については、右からであれ左からであれ、捨てゼリフにも近い批判や不満が寄せられている。コロナ禍による不安もあって、SNSなどによる非難の応酬はますます強まった。しかし、ただ現状を絶望的に描き出すだけでは、新たな展望にはつながらない。この30年間の福祉改革は、ある程度は福祉を前進させてきた面もあるし、もちろん、ビジョンが後退したり、限界にぶつかった面もある。それを、『新自由主義』によって、すべて切り捨てられた』と悲観するのではなく、実証的に振り返り、これから建て直す福祉制度の礎がどこにあるのかを提示したいと考えた。どのような勢力が、どこまでビジョンを実現したのかを探り、これまでの蓄積をよみがえらせ活かしながら、新たな展望を示したかったのがこの本です」

   宮本さんはここで、丸山真男がかつて書いた「大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄」に賭ける」という言葉を引用した。福祉改革の「虚妄」を指摘して、その欠陥をあげつらうことに安住するのではなく、その改革がどこまで進み、どこで後退したのかを冷静に見極め、議論の出発点にしよう、という決意といえる。

   だが、そもそもなぜ、日本の福祉は90年代に入って、焦眉の政治課題として浮上したのだろう。戦後の長きにわたって日本社会を支えた仕組みの根幹が揺らいだためだ。

   本書の冒頭には、印象的なエピソード「一杯のかけそば」が掲げられている。

   話はこうだ。

   ある大みそか、2人の幼い男の子を連れた母親が、閉店間近い札幌のそば屋を訪れた。母親は申し訳なさそうに一杯のかけそばを頼み、3人で分けて食べる。

   その後も毎年、大みそかになると子連れで訪れる母親は、事故を起こして死んだ夫に代わり、賠償金を払い続けているらしいとわかる。

   歳月が過ぎ、医師と銀行員になった息子たちは母を連れ、「最高のぜいたくをしに来ました」といって三杯のかけそばを注文する。

   ここまで書けば、当時この話を聞いて、もらい泣きをしたことを思い出す人もいるだろう。1989年、この物語はブームを呼び、当時の野党議員が国会質問で全文を読み上げたことで全国に知られた。

   だが福祉に詳しい著者は、当時の制度を検証し、これが実話かどうか、極めて疑わしいという。子どもたちが幼かった当時の福祉制度で、最も支援が行き届かなかったのは一人親世帯だったからだ。そうした制度的な問題を差しおいて、苦境を「自助」で乗り越えるという美談が広がった。

   この本が「一杯のかけそば」から始まるのには理由がある。この美談が広がったのはバブルが弾ける寸前で、戦後を支えた「日本型生活保障」が揺らいだ年だ。それまでの制度をいかに「自助」信仰が支えてきたか、その制度が揺らぎ始めたときに改めてその信仰が打ち出されたのがこの物語だった。それから30年経っても総理大臣が「自助」を基本にした国づくりを謳っているのだが。

   「生活保障」とは、雇用と社会保障を合わせた言葉だ。戦後日本では、「男性稼ぎ主の雇用保障に力を入れ、家族の扶養を確保する」という点に特徴があった。行政と企業は「男性稼ぎ主」の雇用を守り、大企業は家族の生活コストも賃金の一部として支払い、政府は所得控除でコストを還元する。

   著者が言う行政・会社・家族がつながる「三重構造」だ。

   加えて日本は1961年に皆保険・皆年金を導入し、男性稼ぎ主の退職後や病気になった時に生じる不備を補った。

   この仕組みはバブル崩壊後、大きく揺らいだ。雇用は不安定になり非正規が急増した。

   少子高齢化で家族の標準モデルは崩れ、共稼ぎが増え、育児や介護を家族のみに委ねることはできなくなった。日本型生活保障ではカバーできない新たなリスクが生まれた。

   これは安定雇用にも就けず、しかも従来の福祉制度からも弾かれる「新しい生活困難層」の増大を招いた。働けるが保険料を支払えず、さりとて福祉の恩恵も受けられない。「働いても生活が成り立たない」困窮層の急増である。

   90年代は、そうした新たなリスクを抱えた生活困難層に、福祉がどう対応するかを迫られた時代だった。だからこそ、「福祉改革」が緊急の政治課題になったのである。

   今にして思えば、従来型の福祉制度の限界は、バブル崩壊という経済ショックのみによってもたらされたわけではない。

   その背後には、漸進的に進行していた人口動態の変化、とりわけ少子高齢化と人口減少があり、バブル崩壊によってその矛盾が一挙に顕在化したともいえる。さらにそのころから同時並行的に進んだ労働力の非正規化や共働き世帯の増加、結婚の高齢化、未婚化などの社会の変化が、相乗的に日本社会の安定を揺さぶることになった。

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