2024年 4月 26日 (金)

外岡秀俊の「コロナ21世紀の問い」(42)政治学者、宮本太郎氏と考える福祉のこれから

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「日本型福祉国家」ができるまで

   政治がこの難題にどう立ち向かったのかを見る前に、従来の日本型福祉国家の成り立ちを振り返ろう。その経緯を見れば、福祉について日本政治がどう合意形成するか、固有のパターンが明らかになるからだ。宮本さんは言う。

「戦後の55年体制のもとで、自民党に対する野党勢力の主流は西欧流の社会民主主義ではなく、マルクス主義でした。彼らの態度は基本的に、『福祉国家は資本主義の延命策』というものです。だから与野党の対立軸は、『社会民主主義』を採用するかどうか、という政策論争にはならなかった。基本的に、体制転換を目指す野党からの圧力によって政権与党が福祉政策を採用せざるを得ない、という状況が続き、『日本型福祉国家』が形づくられた」

   その典型例は国民皆年金・皆医療保険、最低賃金の制度を実現した岸信介政権(57~60年)だ。岸はのちに回顧録で「民生安定の手段として社会保障政策を志向することは、政治家としては当然やるべきことであって、私としては別に気負ったわけではなかった」というが、これも当時の社会党など野党勢力からのプレッシャー抜きには理解できない。その後の池田勇人政権(1960~64年)が「所得倍増計画」を打ち出したのも、自民党自らが率先して政策を掲げたというよりは、野党を初めとする外からの圧力に応じたという面が強い。

   さらに田中角栄政権(1972~74年)は1973年を「福祉元年」と位置づけ、70歳以上の高齢者の医療無料化や年金拡充を打ち出した。ただこれも、68年に飛鳥田一雄・横浜市長が80歳以上の医療保険の負担を引き下げ、69年の美濃部亮吉・都知事が70歳以上の医療無料化を行うなど、革新自治体からの圧力抜きには考えられない。72年暮れの総選挙では、共産党が24議席を増やすなど、足元に火がついた結果ともいえる。

「田中政権は、地方から人が流出するのを避けようと、いくつかの施策を打ち出した。まず、地元でも暮らせるよう、地方に公共工事を回した。農業をしながら冬場も土建業を営む第2種兼業農家が増え、地方で暮らせるようになった。大規模小売店舗法で、中小小売店を保護した。さらに、1972年には車両法を改正し、軽乗用車にも車検を拡充した。全国9万の整備業の収入の4割は車検。これで、地域でも暮らせる人々が増えました」

   宮本さんによると、野党の主流がマルクス主義の流れを汲む日本では、西欧型の「社会民主主義」の基本形である福祉国家の「所得の再分配」は深く根づくことがなかった。代わって、日本の自民党は、野党からの圧力に対し、「雇用の再分配」で社会の安定を図り、福祉の要請にこたえようとした。

   これが、先に触れた「日本型福祉国家」、つまり、男性稼ぎ主の雇用を守りつつ、企業は賃金の一部として家族のコストを支払い、政府が課税控除で世帯を支えるという特殊日本的な生活保障だった。男性稼ぎ主が病気になった場合は医療保険、定年で退職後は年金で家族を支えるという補完システムはそれなりに機能し、比較的安定した社会が作られた。こうして、先進国の中では唯一、女性の就業率が低下するという男性ジェンダー優位システムが構築された。

「これは、だれかが設計図を描いたというより、政治の力の平行四辺形のなかで、自然に形づくられた日本的システムといえるでしょう」
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