自公連立では選挙区調整で「連立解消」の危機もあった
しかし、その最大の壁は、所属国会議員の「選挙区の調整」である。国民民主党も、旧民主党が12年に政権崩壊した後の分裂騒ぎの流れの末に、20年に結成された時は13人の小所帯だった。この1年足らずの衆参2回の選挙で、一気に50人近く(衆院27人)まで膨らんだ。「玉木首相」にするかは別としても、仮に「自公国」政権で総選挙に臨むとすれば、その選挙区調整をしなければならない。
自民・公明の連立政権(1999年、当初は自由党も参加)が成立した直後の総選挙(00年6月)では、両党の公認調整がつかずに、「自公直接対決」など10選挙区近くで混乱した。東京17区では、平沢勝栄氏(自民)と後に公明党代表となる山口那津男氏が対決。平沢氏が当選、山口氏はこの後、参院へ転じることになる。自公がともに落選したり、公明公認候補者を優先したため自民の公認が得られなかった候補が無所属で出馬、当選した事例などもあった。
その後、直接対決はほとんどなくなったが、連立が20年を経過しても、公認調整をめぐって「連立解消か」との騒ぎになった。選挙区の1票の格差是正のための「10増10減」では、23年に新設された東京28区で公明党側が「候補者擁立は最終決定だ」といきなり通告。受け入れない岸田首相に対して公明側が「東京の自民候補全員に推薦を出さない」と強気に出て、一時は連立解消か、との緊張が両党に走った。結局は自民候補を公認、隣の29区で公明候補を自民は推薦するなどの結末になった。「選挙区調整」は「永遠の爆弾」である。