発言が可視化される時代の正しい謝罪とは
では、それでもなぜ「誤解を招く」表現が使われ続けるのか。
まず、SNSの普及により、発言が可視化され、切り取りや拡散が容易になったことで、あらゆる発言が炎上の火種となる可能性が高まっている。
SNSは意見を広げるためには効果的なツールである一方、ほんの少しの不適切な発言でも、瞬く間に広まりかねない。
そうしたなかで、発言者は「意図的に侮辱した」「名誉を毀損した」と認定される法的リスクを避けたい。
さらに、可視化が進んだ現代では、謝罪がかえって責任者への過剰な追及を招くこともある。謝罪が終わりではなく、第二の炎上の始まりになることもあるのだ。
その結果、主語のない「誤解を招いた」という言葉が、「意図的ではなく、誤解をもって受け取られかねない発言だった」という責任を限定した、安全な謝罪としてテンプレート化していったと考えられる。
ただ、今回の池内氏のケースのように、「誤解を招いた」という表現そのものが再び炎上を招いてしまったことは、今後の謝罪発言のあり方に影響を与えるかもしれない。
本来、謝罪とは道義的な行為である。しかし、主語のない謝罪は形式的で、心がこもっていないように映る。
誰もが発信者となり、誰もが炎上の当事者になりうる時代だからこそ、正しい謝罪のあり方を改めて考える必要があるだろう。