日本経済の概況

歴史

朝鮮特需がカンフル剤

  第二次世界大戦末期、米軍の爆撃をうけて日本は焼土と化し、産業の基盤は徹底的に破壊された。戦後のモノ不足は深刻で、超インフレーションが生じ、それを抑えるため今度はデフレに陥る、という状態で、経済は低迷を続ける。しかし、1950年6月に起きた朝鮮戦争が「起死回生」のカンフル剤になった。米軍の特需は軍用トラック、機関車、線路資材、ドラムかん、有刺鉄線、鉄柱などの重工業品の調達から、運輸・通信サービスの利用など広範圏におよんだ。これが経済復興のきっかけとなり、目本は高度成長の時代に入っていく。

三種の神器で消費ブーム

速度を上げて走行する新幹線
速度を上げて走行する新幹線

「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません、勝つまでは」。こんなスローガンで、戦時中抑えられていた国民の消費への欲求は、戦後の混乱が収まり、昭和30年代を迎えるとともに一気に爆発した。主役は耐久消費財、とりわけテレビ(白黒)、洗たく機、冷蔵庫などの家電製品だった。この三つの製品は「三種の神器」と呼ばれ、「豊かな生活」の象徴だった。
昭和39年10月、東海道新幹線(東京―大阪)が運転を開始した。東京オリンビツク開会式の直前だった。そして40年代に入ると、今度はカー(乗用車)、クーラー、カラーテレビの「三C」が花形になり、関連の産業も急成長する。

成長神話の崩壊そして石油ショック

昭和46年8月、米国のニクソン大統領(当時)がドル防衛策のNew Economic Policyを発表した。金とドルの一時的交換停止、輸入課徴金の新設など、衝撃的な内容はまたたく間に地球を駆けめぐり、それまで輸出で強みを発揮していた円は切り上げに追い込まれた。これに、第一次石油ショックが追い討ちをかける。昭和48年10月、第四次中東戦争が勃発、アラブ産油国は、原油価格の70パーセント引き上げと、イスラエルを支持する国に対して供給削減をする石油戦賂を発動した。安い石油をジャブジャブ使っていた日本が受けた打撃は強烈だった。石油製品に限らず、ほとんどの原資材や生活物資が一斉に急騰した。買いだめ、売りおしみが横行、物価は前年比二ケタも上昇し、「狂乱状態」と形容された。

輸出依存が対外摩擦招く

横須賀市にある日産追浜工場で専用輸送船に積み込まれる新車
横須賀市にある日産追浜工場で専用輸送船に積み込まれる新車

昭和54年には第二次石油危機が起きる。二度の石油危機を通じて日本の産業構造は大きく転換した。台頭したのが、エネルギー消費量の少ない、加工組み立て産業だった。エネルギー多消費型の素材産業から、自動車、電子・電気機械、精密機械などの機械産業へ、主役の交代が行われた。この間に、平均の年成長率がほぼ10パーセントという高度成長期に終わりを告げ、低成長時代に移行した。しかも、高度成長期より輸出への依存を強めた。消費が停滞したうえ、投資が鈍り、需要を海外に求めたからだ。輸出は欧米向けを申心に急増していく。これに対し輸入は伸びない。内需が弱いうえ、輸入制限的な措置が数多く残り、流通機構が複雑で、外国製品がなかなか入りこめないからだ。このため、相手国は赤字、自分だけ黒字をため込む「輸出アニマル」ぶりが世界から非難の的になった。対外経済摩擦の根はここにあった。新規参入を歓迎しない閉鎖的な取引慣行や、お役所の規制の多さなど、日本の「構造問題」が外国から槍玉にあがる。

バブル崩壊の重荷

二度の石油危機を乗り切り、安定成長への道が確立したかに見えた1980年代の終わり、日本は再び「超好景気」に突入する。「ジャパンアズナンバーワン」だとか、「21世紀は日本の世紀」という心地のよい言葉が飛び交い、株や土地が短期間で何倍にも上がる。世界各国の株式、債券、不動産を買いあさり、その標的は美術品にまで及んだ。バブル景気は1986年11月から1991年2月までの51ヶ月。銀行はやみくもにカネを貸し出し、空前のマネーゲームが展開された。

東京のビジネスの中心である丸の内にブルックス・ブラザーズがオープン
東京のビジネスの中心である丸の内にブルックス・ブラザーズがオープン

その結果は悲惨だった。金融機関は巨額の不良債権を抱え、吸収されたり、つぶれていく。膨れ上がった不良債権は徐々に企業の体力を奪っていった。かつて賞賛の的だった、終身雇用などを主な柱とする「日本的経営」は過去の遺物扱い。景気はますます悪くなり、過剰な設備を廃棄し、人員を減らす「リストラ」がブームになっていく。それでも、景気は上がったかと思うと、すぐ下降線をたどる、といった不安定な状態が続く。そして、物価がマイナスを記録するデフレ状態が表れ、「日本は沈没する」という悲観論まで登場した。90年代はバブルの後始末に追われ、前向きの施策がなされなかったという意味で「失われた10年」と命名された。

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